最近、『魚が存在しない理由 世界一空恐ろしい生物分類の話』(ルル・ミラー著)という本を読みました。
タイトルだけ見ると不思議な本ですが、
内容は「分類学」の持つ力を、とても丁寧に、そして少し怖いほどリアルに描いたノンフィクションです。
この本は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、
世界中の魚を分類し続けた科学者デイヴィッド・スター・ジョーダンの生涯をなぞりながら、
「魚」というカテゴリーそのものが、実は科学的には成り立たないかもしれない、
という衝撃的な事実を浮かび上がらせます。
一見すると、分類学はとても“きれいな”学問のように思えます。
目に見えない進化の歴史をもとに、生き物を合理的に整理し、
「これは哺乳類」「これは魚」「これは爬虫類」と枠分けすることで、
私たちの世界は理解しやすくなります。
しかし本書は、その「整理」が持つ危険性を、丁寧に、
そして静かに指し示しています。
分類は便利な道具であり、でも「真実」ではない
『魚が存在しない理由』の核心は、
「魚が存在しない」という発言そのものよりも、
「人間が勝手に引いた分類線が、
世界の現実を超えるほど強力に見えるようになってしまう」
ことにあるように思います。
進化系統学(クラドistics)の視点では、
いわゆる「魚」というカテゴリーは、
他の動物群に比べて「自然なグループ」になっていません。
つまり、私たちが日常的に「魚」と呼んでいる多くの生物は、
実は陸上動物の一部と深くつながっている一方で、
その枠の外には別の“魚”が入っていない、
という不自然な切り取り方になっているのです。
このように、分類は「自然そのもの」ではなく、
「人間が世界を整理するために引いた線」にすぎません。
しかし、その線が教科書や図鑑を通して繰り返し使われると、
いつの間にか「世界の真理」として信じられるようになります。
分類学の危険性――秩序と支配
ミラーは、分類学の「危険性」を、ただの科学の誤りとして描いていません。
むしろ、分類という行為が、
「秩序をつくる」「整理する」「整理しにくいものを除外する」
という側面を持っていることを、冷静に、でも鋭く問いかけています。
分類学は、多様であいまいな生物の世界を整理し、どこに何が属するかを示すことで、
研究者や一般の人にとって分かりやすい世界を作ります。
しかし、その整理の過程で、
-
- 境界が曖昧な事例
-
- 既存の枠に収まらない生き物
-
- 分類されにくい生態
が、目立たないままになりやすいのです。
- 分類されにくい生態
この仕組みは、分類学にとどまらず、医学にも通じるように感じます。
西洋医学は、病名や診断基準、ガイドラインによって、
人の症状や病態を「分類」し、治療を標準化します。
これは、多くの命を救った、重要な成果です。
しかし一方で、「分類=正しい・安全」と信じられすぎると、
-
- エビデンスがない治療法はすべて危険
-
- 標準治療に合わない患者は“扱いにくい”
-
- 伝統的なアプローチや代替療法は排除される
という流れが生まれやすくなります。
分類学が「魚」という便利な枠を絶対化したように、
医学も「病名」「エビデンスの有無」「標準治療」という枠を、
世界の真実のように扱いがちです。
そして、その分類の枠は、
すべての人の声や経験を包み込むわけではありません。
逆に、分類しにくい、測りにくい、数値化されにくい苦しみや回復は、
その枠の外に落ちてしまうことがあります。
ホメオパシーと西洋医学――分類の枠を超えて対話へ
私はホメオパスとして、西洋医学の立場から
「エビデンスがないものは危険」という言い方をよく耳にしてきました。
当然、安全性や副作用の問題は真剣に考えるべきですし、
データに基づく判断は必要です。
しかし、『魚が存在しない理由』が問うように、
「分類=真実」という思い込みは、
多様な世界を扁平化する危険性を持っています。
分類学は、分類しにくい生き物や、
既存の枠にうまく収まらない進化のプロセスを、
少しずつ歪めてきました。
同じように「エビデンスがある/ない」という二元論は、
-
- 西洋医学の内側だけで成り立つ「秩序」
-
- その秩序に収まらない治療法や経験を「無視しやすい」
という構造をつくり出すリスクがあります。
だからこそ私は、
「ホメオパシーは西洋医学の“正反対”」ではなく、
「西洋医学とホメオパシーが、それぞれの枠の中でしか見られない世界を、補完し合える」
という視点を大切にしたいと思っています。
西洋医学は、集団データや統計、病名と診断基準を使って、
効果を客観的に見ようとしています。
それは、大きなスケールでの安全性や有効性を担保するために不可欠です。
一方で、ホメオパシーに代表されるような代替療法は、
-
- 個人の細かい症状や感触
-
- 時間軸を通じた変化
-
- 本人の主観的な体験
に寄り添う面が強いです。
どちらも“分類”を用いていますが、その枠の大きさや、
重視する視点が異なります。
だからこそ、どちらも「完全に正しい枠」ではなく、
「見える部分と見えにくい部分がある枠」にすぎない、
という謙虚な姿勢が大切ではないでしょうか。
分類の謙虚さ――世界を歪めないために
『魚が存在しない理由』が私たちに示すのは、
「分類は便利で強力だが、その枠を絶対化してはいけない」という、
とても静かな警鐘です。
分類学は、科学者の手を借りて、世界に秩序をもたらします。
しかし、その秩序が強くなりすぎると、分類されにくい事実や、
枠に収まらない声が、見えにくくなっていきます。
医学も同じように、
-
- 西洋医学の枠
-
- 代替療法の枠
-
- それぞれの「正しさ」や「安全性」の定義
を、前提として対話的に見直すことが必要に感じます。
分類やエビデンスは、
私たちが世界を理解しやすくするための道具にすぎず、
世界そのものではない。
そのことを忘れなければ、
「西洋医学だけが正しい」「エビデンスがないものはすべて危険」、
逆に
「自然療法だけが身体に優しい」「お薬や予防接種は毒」
と言うような、
分類の暴力を少しでも和らげることができるのではないかと思います。
まとめ――「分類」を手に取って、よく見つめる
『魚が存在しない理由』は、科学の話でありながら、
人間の認識の限界や、秩序の背後にある暴力までを、
静かに見つめています。
分類学は、世界を整理し、理解しやすくするための
素晴らしい道具です。
しかし、その道具が「世界の真実」として扱われると、
世界の一部を歪め、声を抑圧し、多様性を失わせる危険性を持つことも、
本書は教えてくれます。
分類やエビデンスは、治療の安全性と有効性を支える柱ですが、
それだけが「すべての真実」ではない。
だからこそ、私はホメオパシーと西洋医学の間に立って、
「分類の枠」を超えて、人の声や体験、
多様な回復のプロセスを重ね合わせていきたいと思います。
分類は、世界を整理するための手紙のようなものです。
その手紙を読むとき、
「世界そのもの」ではなく、
「その視点からの世界」を見ていることを、
忘れないようにしたいと思います。
